障害者の明日への主張

 

公益社団法人 東京都身体障害者団体連合会
東京都障害者社会参加推進センター


第21回「障害者の明日への主張」作文
  ~社会参加への取組みについて~

 

今、私に出来る事を一歩ずつ…
                                                                                   山後 政芳

 

なんか変だぞ!このかすれ声。今、思えばここからすでに私の障害者人生が始まっていたのだ。
 今から3年半前の63歳の秋、突然に声がかすれた。しばらくすると、また普段の声に戻るといったことが2週間ほどくり返し続いた。やっぱり変だ。近所の耳鼻咽喉科の診断を受けることにした。その場で喉に腫瘍が見つかり大学病院を紹介され検査入院することになった。
 頭を過ったのは、がんかも知れない。そもそも我が家はがん系統なので、がんに対する恐怖感は日頃から常にあった。
 検査結果は的中した。主治医から「喉頭がんです」と診断を下され、やっぱりそうか!覚悟はしていたものの、いざがんと宣告されると目の前が真っ暗になり、がんで亡くなった母のことを思い出した。また残酷なことに「声帯を取ることになり、声を失うことになります。」と息つく間もなくズバリ言われ衝撃を受けた。がんであることのショックよりも、失声のショックの方が、何故か大きかった。
 麻酔がさめ看護師さんが声を掛けてくれたが声が出ない。この時、声帯が無いことの現実を知った。覚悟はしていたものの想像をしていた以上に辛いものがあった。
 喉頭摘出手術を受け喉摘者という音声言語機能障害を持つ身になった。これからは喉摘者として現実を受け止め、社会と向き合っていく覚悟を決めた。覚悟を決めたものの今後のことを考えると、やはり不安だらけで、ただ呆然としている日々が続いた。
手術前に主治医から銀鈴会のことは聞いていた。食道発声練習をしている所だ。退院後、早速「公益社団法人銀鈴会」に入会した。発声教室では、すでに訓練が始まっていた。私が想像していたよりも多くの喉摘者が訓練を受けていたので、何か安心した気持ちにもなった。また驚いたことに普通に会話をしている人を目にした時、訓練であそこまで話せるようになるかと思うと、何故か勇気が湧いて来た。
 この日から私は仕事を続けながら発声教室に通い、声を取り戻すための訓練が始まった。仕事は筆談でのコミュニケーションを取りながらだった。この状況を一日でも早く抜け出さなければいけない……と思うと発声訓練に力が入った。
 3年半が経過した今、声を取り戻せることを信じ続けて来て良かった。指導員の先生や同じ境遇の仲間たちにも励まされ、筆談も卒業した。会話も出来るようになった。声を得た喜びに満ちた第二の声のスタートだ。今までは情けないぐらい消極的で何をやっても自信がなかった。当時はそれが精一杯だったのかも知れない。これからは第二の声で、今までと違った自分らしさを出していくつもりだ。
 私は音声言語機能障害者だ。このところ感心を持っている事は、4年後に開催される東京オリンピック・パラリンピックだ。その中でも苦境を乗り越えて来たパラアスリートたちに関心がある。走る、泳ぐ姿がバランスよく素晴らしい。人間の体の機能のすごさを感じる。体ってこういうふうに使えるんだときづかされることもある。ぱらアスリートが競技を続けるのは簡単ではない。相当な覚悟が必要だと思う。喉頭摘出者である私もバランス良く素晴らしい声を出したいものだ。
 私以上にもっと辛く障害をかかえている人は沢山いると思う。そのような方々は、私にも想像できない生きるという知恵の引き出しが豊富で、自分に合った方法を見つけ出す術を持っている。そしてその術を自ら磨き上げ体の一部とし、機能を果たしていると思う。
 喉頭摘出者である私たちもそうである。声帯の代わりに新声門として食道から声を出す食道発声法がある。これにおいても体の一部機能として食道が声帯の役目をはたしている。こうしてみると人間の生命力は凄い。また能力は無限だ。
 現在、私は銀鈴会で指導員をさせていただいている。教える側と学ぶ側とのコミュニケーションを取りながら、今の私に出来ることは、私と同じ病気で声を失い苦しんでいる方に、一人でも多く、声を取り戻してあげたい。一人でも多く、会話が出来るようにしてあげたい。一人でも多く、社会復帰をさせてあげたい。これが今、私に出来ることだ。
 これからも一歩一歩着実に進みながら、お手伝いをしていきたいと思う。また、ここまで私を支えてくれた大勢の方々に心より感謝します。ありがとうございました。

 

 

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